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さかさまの訪問者

夜の深さが増し、町は静けさに包まれていた。街灯の薄明かりが、まるで時折息を呑んでいるように揺れ、無人の道に白い影を落としていた。住人たちはそれぞれの寝室で眠りについているはずだった。だが、ひとり、ベッドの中で目を閉じることなくただひたすらに
夜の闇を感じている者がいた。


由紀子は、その晩、深い眠りに落ちることができなかった。彼女の部屋には、じっとりとした湿気と、ほんのりとした不安が漂っている。寝室の隅に置かれた時計の音だけが耳を打つ。その時計は少しだけずれていることに気づいたが、それでも時間が進んでいることに安心していた。

だが、その時だ。


彼女の目の前に、薄暗い部屋の中に一筋の影が現れた。何の前触れもなく、ただ、そこに立っていた。それは、まるで鏡に映った自分の姿のように見えた。だが、よく見ると、どこか異様だ。動きが、何かがおかしいのだ。

影は、まるで逆さまに歩くように、天井に足をつけ、頭を下にして歩いていた。足が天井に吸い寄せられるように動き、まるで天と地がひっくり返ったかのように感じられる。その姿は、まるで夢の中のようだったが、夢ではなかった。由紀子は目をこすったが、その影は消えるどころか
さらに近づいてきていた。


その「訪問者」は、何も言わず、ただ静かに由紀子の前に立っていた。逆さまの姿勢のままで、じっと彼女を見つめる。その目が、ひどく冷たく、鋭いように感じられた。


由紀子は息を呑み、動けなくなった。冷たい汗が額に浮かび、心臓が激しく鼓動を打ち始める。何かを声に出して叫びたい、誰かに助けを求めたい。しかし、口を開くことすらできなかった。
声が出ないのだ。その時、突然「訪問者」が口を開いた。


「触れるな。」


その声は、空気を裂くように響いた。まるで二重に重なった音のように、震えた声が由紀子の耳に届く。恐怖が増していく中で、由紀子はどうしてもその存在に触れたくなった。理由は分からない。ただ、体がその逆さまの影に引き寄せられるように動いてしまう。

そして、由紀子はその「訪問者」に手を伸ばした。

触れた瞬間、世界が歪み始めた。


目の前の壁がくねり、空気がねじれて、まるで全てのものが反転し、次元が崩れていくような感覚に襲われた。彼女の体は浮き上がり、天井と床が一瞬で入れ替わったかのように感じられる。足元が崩れるような感覚にとらわれ、心が狂っていくのを感じた。

そして、次に気づいた時、彼女は自分が今いる場所がどこか分からなくなっていた。

部屋の中の景色は変わり果て、窓からは異様な夜空が広がっていた。星々が逆さに並び、光が幾重にも折れ曲がって見える。道を歩く人々も、すべて逆さまに動いているように見えた。足元に目を向けると、床ではなく天井が見えており、空間全体が巨大な鏡のように反射していた。

何が起こったのか、由紀子には全く理解できなかった。ただひたすらに、頭の中が混乱している。恐怖と興奮が交錯する中、冷静さを取り戻そうと試みるが、頭はうまく回らない。


その時、ふと気づいた。


「訪問者」はどこにもいなかった。


代わりに、部屋の隅に、別の影が現れていた。今度は逆さまではなく、普通の姿勢をしている。しかし、その顔には、どこか不自然さがあった。目が真っ黒で、瞳が異常に大きく、由紀子をじっと見つめていた。その目の奥には、何もないかのような無機質な深さが広がっている。

由紀子は、その目を見た瞬間、理解してしまった。


「訪問者」は、ただの存在ではない。あれは…「彼女」だったのだ。


それが由紀子の過去の自分であることに気づくまで、ほんの数秒の時間が必要だった。その「さかさまの訪問者」こそが、過去の由紀子だったのだ。

そして、今、目の前に立っているこの存在は、過去の自分のように見えて、実は全く違うもの――もう一度言うが、「彼女」は、もう現実の中には存在しない。

その時、彼女の胸を締めつけるような、途方もない恐怖が襲ってきた。


「私は…何をしているんだ?」


由紀子の思考が止まった。何度も心の中でその言葉を繰り返す。だが答えは出ない。目の前の自分と向き合うその瞬間、すべてが逆さまになったような気がした。今、彼女はどこにいるのか? それとも、どこに行くべきなのか?

その疑問に対する答えは、永遠に見つけられないままだろう。

恐怖と混乱に包まれたその夜、彼女はただひたすらに「さかさまの訪問者」の影が、鏡のように反射する空間の中で彷徨うのを見つめていた。